「悪魔祓い」というタイトルと「これこそ人類の叡知が結晶した、真の『癒しの術』!」という帯のコピー。
まるで、僕の目に留まることを仕組んだかのような本。
「悪魔祓い」という言葉ですぐに頭に浮かぶのは、「エクソシスト」に代表されるキリスト教系悪魔の憑依と、イエスの名における除去の儀式だよね。
だけどこの本に描かれているのは、文化人類学者である著者が、遠くスリランカの村で目にした「悪魔祓い」の儀式の中に、人が「いきいき」する源となる鍵を見いだしていくプロセスなんですね。オカルト系の本じゃない。
著者が感じる「いきいき」っていうのは、インドを旅した時に感じた、広いダイナミックレンジで生命感に溢れたエネルギーのようなもの。
それが、どうつながって「悪魔祓い」に行き着いちゃうのか?
著者が「いきいき」から見放されて低空飛行状態だった時、ふと夜道で出会った<闇>の存在が、「いきいき」の源は目には見えぬものと重なっているはずだ、という確信を持つに至らせたんです。こうやってまとめてしまうと飛躍してるけど、著者自身の中、また本の中では、ちゃんと1つの流れの中に考えの推移を読むことができます。
スリランカでも、近代化された都市部では「悪魔祓い」なんて前時代の遺物であるとされてるんだよね。家族の誰かが、急に生気を失って幽霊のような存在になったり、奇行を働いたりすると、今なら精神医学的な解釈がされるのが<一般的>なのです。ヒステリー性分裂病だったり、鬱病だったり、そういう病名がついて。
でも田舎の方へ行くと、それは「悪魔」が憑いた状態であると見なされて、「悪魔祓い」の儀式が執り行われるのです。それで憑かれた人が元に戻るのです。精神系の病気治療であるなら、数ヶ月数年かかるような症状の人がです。
呪文、ダンス、太鼓の音、鶏のいけにえ。それは歌舞伎の演目のように決まったパターンと種類があって、症状、取り憑いた悪魔、予算によっていろいろ組み合わされるのだそうです。予算というのは、儀式に訪れる村人へのもてなしなども含め、日本円にして20万から100万の出費らしいですね。かなりの高額です。これは貨幣経済が浸透したことで、物資の調達すべてにお金がかかってしまうようになったかららしいのですが、結婚式並の出費をカンタンに用意できないのは想像がつきます。「悪魔祓い」が衰退していったのは、この金銭的負担が大きかったようです。近代的な病院に通えば、もっともっと少ない出費で済んでしまいますから。
スリランカの、まだ「儀式」が生活の中に生きている「呪術師の村」で、著者は多くの「儀式」に立ち会い、多くのパターンを体験し、やがてこれが現代の「イメージ療法」に非常に似たテクニックを使った<癒し>の治療であることに気が付きます。
心と体は一体であり、体内の免疫機能が果たす自然治癒の力を促すスイッチを入れる。
巧妙に宗教的な文化背景と比喩を織り交ぜて、代々洗練改良を加えられた「知」の集大成が、医学としての「イメージ療法」の弱い点をも補う巧妙さを持っていたのは驚きですが、結論としては、似てはいるけどイコールではないのです。
「イメージ療法」のテクニックを応用すれば、癌を治すといった前向きな方法ばかりでなく「潜在能力開発セミナー」や洗脳にも発展していきます。「イメージ療法」に伴うそのような危険に対しても、きちんとファイヤーウォールを備えている「悪魔祓い」の「知」には、驚きとともに人間の信じる力のすごさをも感じました。
「悪魔」は孤独な人を狙って取り憑くそうです。そして憑かれた人は、人や社会、家族との「つながり」を再び手に入れることで完治していきます。
「悪魔」に比喩されているものは何か?「悪魔」を信じることで治っていくのはどうしてか?引用されていたジョン・レノンの「イマジン」の歌詞。「つながり」こそが究極の幸福なのでしょうか…?
とてもおもしろい本でした。活字を読むのが遅い僕でも、どんどん読み進んでしまいました。
この本が元々出版された1990年という時期は、サブカルチャー好きな人々(ペヨトル工房の本とか好きな人たち)の間で「アルファ波」グッズが流行ったころ。普通の人々が<癒し>に金を払うこの時代に、再び文庫版として登場したというのはタイムリーですね。
自分に取り憑いているはずの「悪魔」をどう祓うべきなのか?錠剤やダンスでちょっと近いことをしてるかな、僕は…(^^;
「悪魔祓い」上田紀行 著
講談社アルファ文庫 ISBN4-06-256457-2
>>Return |