集団心理の恐怖「ミスト」[2]

カーモディとアマンダ

女子トイレの中、キャンドルを灯しカーモディが目を潤ませてつぶやいている。
「──どうか私に、この人たちを助けさせてください。あなたの言葉を説かせてください。光で導かせてください。
悪人ばかりではないはず。全員が悪人ではありません。何人かは救うことができるはずです。
そう、あなたの赦しによって──天国の門をくぐれるはずです。
でも彼らのうちの多くは──永遠の地獄の炎の中にいる。
もし何人か救えたら、たとえ1人でも…私の人生に意義が見いだせます。
私は役割を果たせるのです。そしてあなたのおそばへ行ける。あなたのご意思をまっとうできるのです」
──そこへアマンダが入ってくる「トイレを使わせて」
アマンダはドアから出て行くカーモディの様子が気にかかって声をかける「当然のことだわ。恐れるのは誰でも同じよ。友達か、話し相手が必要な時は私が…」
するとカーモディは急に牙をむき「友達はいるわ、天の神様よ。毎日、話をしてる。偉そうにしないで!」
「私が?そんなつもりはないわ」というアマンダに、畳みかけるように返ってきた言葉は「あなたを友達にするくらいなら、トイレの汚物のほうがマシ!」
出て行く彼女に、アマンダは「はあ?」という顔になる。

新任の教師アマンダの言葉に、過剰な反応をみせるカーモディ。
友達がいないことを、よそ者からバカにされたとでも思ったようで。この段階でアマンダは「この人には理性で会話しても通じない」とマーキングしたようです。以降、カーモディとアマンダはお互いを敵視するようになってしまいます。

──カーモディの1人演説状態がはじまる。周りが引いているのを気にせず、一人盛り上がっている。

カーモディ:怪物が哀れな若者をさらった。霧の中にいる物を疑うの?
そうなの?なら外へ出て。挨拶でもしなさい!
男:黙れよ!頼むから。子供たちが怯えてるじゃないか。
カーモディ:怯えるべきよ。そう、怯えるべきだわ。
(少女の頬をなぜながら)彼らの美しく純粋な心は、多くのウソで汚されたのよ。空疎な”現代の神”や無神論にさらされて、神はただひとつ。ユダヤの神よ。過酷で、復讐心を持つ神。
我々は神を無視してきた。だから神は償いを求めている。今こそ立場を選ぶ時、救われるか、呪われるか。
聖書にあるとおり、生贄が必要。血よ!
アマンダ:(我慢して聞いていたが耳を疑うように)何ですって?
カーモディ:血よ!ノームは最初の生贄。神は我々の犠牲を望んでいる。神へのツケを支払わねば。
(アマンダ、デヴィッドと信じられない!という顔で見合わせる) カーモディ:アブラハムが息子の命を差し出そうとしたように。
アマンダ:(子供を叱るようにカーモディの頬をはたく)やめなさい。
カーモディ:(切れた口からの血を指につけまわりに見せつける)これも支払いの一部、血の一滴よ。
ビル:よくやった、俺がやりたいよ。
アマンダ:旧約聖書じみた考えに腹が立って。
カーモディ:怪物が襲う(皆がいっせいに彼女をみる) たぶん今夜、闇と共に。今夜襲いに来て、誰かの命を奪う(自信ありげに言う)見てなさい。怪物が来たとき、あなたたちは神に叫び、この私に導きを求めるのよ。
アマンダ:(無言でクビをふる。この女につきあってらんないって感じで)
オリー:結構だな。だが、黙らないなら、その口にテープを貼る。
カーモディ:やってみなさい、オリー。それに、あんた(アマンダに向かって)
今度ひっぱたいたら。もし、やれるなら…私にひざまずいて、助けを乞うはず。

「救援を求める方法を考えたい方は、私の元へどうぞ」と言って集めた弁護士ノートン陣営が、いよいよ表に出ようとしています。
止めても耳を貸さないノートンに、デヴィッドは白いロープを取り出して言います。「頼みたいことがある。これを腰に縛れ。100メートルは行けたと分かる」
そもそも霧の中になにかいるとは思っていないノートンは、怪訝な顔になります。そこに「俺がやろう」と言う男が出てきます。バンダナを巻きレザーパンツをはいた中年バイカー風の男。
彼は場にそぐわないほど冷静に言います。「彼は相当気が立っている。誰か命を落とす。ショットガンを取ってこよう。(老いたカーボーイ風の男に向かって)あんたのトラックから。奥にある赤いのだろ?」バイカー男は胴にロープを巻き付け、ドアの近くで抗議するように立っているカーモディに捨て台詞を言います。
「イカれたレディ、俺も神を信じるが、神は、あんたが言うほど、血に飢えてない」

アマンダとカーモディ

アメリカの田舎町というと、「キリスト教根本主義」が幅を利かせている土地、というイメージがあります。
さらにカーモディのような狂信的なキャラクターがいることで、聖書によるフィルターを通した常識しか持ち合わせていない人ばかりか?と思ってしまいました。
カーモディだけがちょっと特異な存在のようです。バランス感覚のある人も登場して、彼らは自然とデヴィッドの仲間になっていき〈リベラルな人たち〉のグループを形成します。

「キリスト教根本主義」が敵対しているものは「リベラル」。スピリチャルとリベラルって相反するものではないと思うのですが、現代社会で2000年以上前に編纂された聖書の言葉をよりどころに生きていこうとすれば、保守的な人格であることが必然とされるのでしょう。
自ら考え、知を求め、進んで改革していこうとする〈リベラルな考え方〉が、現代では〈悪魔〉的存在のようです。政治的なニュアンスが強いと言えますが。

ところで。デヴィッドを演じるトーマス・ジェーンは、20年ほど前に人気のあった『ハイランダー』のクリストファー・ランバートにちょっと目つきが似てますね。(クリストファー・ランバートの方がセクシーですけど)
デヴィッドはリーダーとして共感しやすいキャラクターではありますが、強い印象を残す人物ではありません。表情があまり豊かでないのと、容姿や性格に極端な特徴がないからでしょう。主役にしては地味なのですが、平均的な市民の代表という役柄にはぴったりです。
もっとも強い印象を与えるキャラクターは、狂信的に人々を煽動する骨董屋の女主人カーモディです。変わり者と町の人々から認識されている彼女は、人間を信じていません。神しか信じない。みな顔見知りのこの町で、なんとなく疎まれていることに、彼女も生きにくさを日々感じていたのかもしれません。
カーモディもはじめは皆と一緒になって恐怖に怯えていました。「聖書」からヨハネの黙示録の一節を唱えているうち、この状況も神の下された行いとして受け入れようとしているようです。

カーモディの啓示

ペットフードや肥料の袋でバリケードを築いた店の前面ガラスだが、日が落ちて暗くなると駐車場の夜間照明が自動的に点灯し、羽根をもった巨大昆虫を呼び寄せてしまう。
窓に次々と張り付いてくる巨大昆虫を見て、カーモディがつぶやく。
「煙の中からイナゴの群れが地上へ。それらのイナゴには、地上のサソリと同じ力が与えられた。(ヨハネの黙示録 )」
さらに小型翼竜のような化け物が執拗にガラスに体当たりしてきた。そしてついに穴が開いてしまい、そこから化け物の店内への侵入を許してしまった。
モップに液体燃料を染みこませた〈たいまつ〉で応戦する人々。気の良い娘サリーの首には、巨大昆虫が飛んできてはりついた。必死にそいつを引きはがしたが、サソリのような尾の針で刺されてしまう。高校時代から想いを寄せていた若い兵士の目前で、サリーは絶命してしまう。醜く腫れ上がった顔になって。
そして狂信家カモーディの腹の上にも巨大昆虫がとまった。彼女はじっとして動かない。虫は腹から胸に這い上がってくる。尾の先にある針は、カーモディの顔を狙っている。
彼女はゆっくり両手を広げて「この命を…神に捧げます。御心のままに」と呟く。虫は首に噛み付こうとするが、急に体から離れる。彼女の顔の前で見合うように静止して羽根を動かしていると、彼女の髪がかすかに後ろになびき、何かの啓示を受けたような「画」になる。虫はそのまま飛び去っていき、彼女は神に感謝するポーズをとる。本当に神の言葉を受け取ったからか、抵抗しないせいだったのかは分からないが、巨大昆虫は去っていった。どちらにしても奇跡が起こった。

巨大昆虫の襲撃が収まりかけた頃、カーモディの信者が現れる。「彼女が言ってたとおりになったわ。夜、襲ってくるって。誰かの命が奪われるって」
カーモディはこれまでにない穏やかな顔になる。

カーモディの啓示

目の前の現実に対して、素人ながらも応戦しようとしている人々。カーモディはただうろうろして聖書の言葉を口にしています。何かしようとしている人たちに、水を差すようなその言葉は、人々を苛つかせます。なのに結果として黙示録に書かれている通りの展開になってしまうのでした。2000年以上前、ヨハネと名乗る著者がみた〈終末において起こるであろう出来事の幻〉とは、このようなものだったのでしょうか。

この町では孤立して神とだけ会話しているカーモディ。髪をなびかせ、神の啓示を受けたかのようなカーモディにとって、虫に襲われなかった事実は、スピリチャルなものであっても生物の本能的反応であっても、関係ないのです。奇跡が、彼女の世界観に絶対的な肯定を与えたのです。

カーモディのことを「困ったおばさんだなぁ。ヤバイなぁ」としか思っていなかったのが、後になるにつれ「生贄と聖書の引用以外では、けっこうマトモなことを言ってるじゃん」と思えてきます。彼女のことを疎ましく感じていた人たちの運命を思うと、受け入れがたいけれど一番正しいのは彼女だった?と思わせる展開になっていくのが皮肉です。

『ミスト』という映画は、モンスターパニックの体裁を借りて、人間の傲慢さと聖書の正しさを伝える物語なのでしょうか?
人間の傲慢さへの警告はあるでしょう。でも黙示録に書かれていたことが現実化したのかについては、そう受け取れる部分もあるけれど違う、と思うのです。さまざまな価値観や背景を持つ人々の中で、災いはすべて神の怒りと解釈してしまう人間はいる、ということを言いたいのだと感じるのです。そう感じる人の多くは、怒りをかったのは自分以外の誰かのせいと思ってますよね。たぶん。

初出:2009年08月14日

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