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「シャイニング」考 [5]

2009 年 7 月 18 日 TZK

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午前8時

これまで曜日だったテロップが、ここから時間に。カウントダウンです。
119分版に「午前8時」のテロップはありません。

飛ぶコンチネンタル航空の旅客機。
機内でスーツ姿のハロラン。
/──119分版ではここまで──/
落ちつきなくパーサーに尋ねる。「デンバーには何時?」「8時20分です」礼を言い、自分の腕時計を確認する。

/──119分版ではカット──/
[ディゾルヴ]ホテルロビーでタイプを打つジャックの背後姿へ、ゆっくりカメラが寄っていく。
[ディゾルヴ]雪で視界が悪い空港に、飛行機が着陸する。
[ディゾルヴ]「DURKIN’S」の看板が立つショップに、皮のハーフジャケットに毛糸の帽子を被った黒人男が入っていく。カウンターで鳴り続く電話に、雪を払いながら出る。
ハロラン(声):ラリーを。
ラリー:私です。
ハロラン:(空港の公衆電話から)ハロランだ。
ラリー:やあ、マイアミはどうかね?
ハロラン:今、デンバーに来ているんだ。
ラリー:何しに?
ハロラン:“展望ホテル”へ行く。あちらの天候は?
ラリー:町はともかく、山の道は通れない。
ハロラン:雪上車が必要だな。1台頼む。
ラリー:こんな天気に何しに行く?
ハロラン:誰にも言うなよ。ホテルの管理人に連絡が取れない。まったく頼りにならん連中だ。支配人に頼まれて、おれが調べに行く。
ラリー:いつ来られる?
ハロラン:5時間後だ。空港で車を借りる。
ラリー:用意しとく。
ハロラン:すまん、手間をかけて。
ラリー:気をつけてな。
/──カットここまで──/

[ディゾルヴ]凍り付いた道路を走る車。ライトを点灯させワイパーを動かしている。カーラジオの明るい音楽が流れる。「〈ラジオ〉デンバー局のハルとチャーリーです。」
[ディゾルヴ]注意深く前方をみながらハンドルを握るハロラン。「〈ラジオ〉チャーリー、日が悪いな。デンバーは市内もすごい雪だ」
[ディゾルヴ]車内からワイパー越しに、雪で転倒事故を起こしたトラックと交通整理をしている男が見える。
「〈ラジオ〉山への道はほとんど閉鎖された。チェーン使用命令が出ている。国際空港にはまだ少数の到着機があるが、多分1時間後には完全閉鎖だろう。この雪は一日中降り続く見込みで気象庁から警報が牧場主や旅行者に出された。」

/──119分版ではこのシーンはカット──/
ダウンを着せたダニーとタバコを吸っているウェンディが並んで座り、テレビでカートゥーン(ロードランナー)を観ている。ダニーの前にはスープ皿とコップに半分ほど入ったココア。ウェンディは落ち着きがなく腕時計に目をやると、そっとダニーの腕に手をかけ、頭を撫でる。
「ダニー、よく聞いて。パパと話をしてくるわね。すぐ戻るわ。その間、ここでマンガを見ていて。いいわね?」
じっとウェンディを見るダニー、しばらく間があってから『はい。トランスの奥さん』。
ウェンディ、ダニーのおでこ、頭へキスをする。「じゃ、5分したら戻るわ。錠をおろすわ」
ゆっくりダニーから離れるウェンディ、ダニーがテレビへ顔を向けていることを確認すると、そっとバットを手に持ち部屋を出る。

ハロランがダニーの救助念波に感応して、悪天候の中ホテルに戻ろうとしています。その手順をディゾルヴでつないで見せていくシークエンスは、119分版でほとんどがカットされてしまいました。そのせいで、空港の公衆電話から電話をかけるハロランの友人らしい黒人のラリーは、キャストから消えてしまいました。

前章でカットされたのが残念だと書いた、ダニーの中にいるのがトニーで、ウェンディのことを『トランスの奥さん』と呼ぶシークエンス。そのために、ダニーを部屋に置いてジャックと話をつけてこうと、そっとバットを手にして部屋を出ていくウェンディの心境がわかるシーンもなくなってしまいました。ここはいいシークエンスだったのに。

[ディゾルヴ]ウェンディ、バットの真ん中あたりを両手で握り、ロビーに入ってくる。だが、タイプ音が聞こえない。ジャックの姿が見えない。「あなた?」
部屋の奥まで行ってみたが、気配はない。タイプライターの置かれたデスクに近づいてみる。タイプライターを覗き込んだ顔には、みるみる動揺が広がっていく。
タイプライターに差しこまれた原稿用紙には…

All work and no Play makes Jack a dull boy
“仕事ばかりで遊ばない。ジャックは今に気が変になる”

という一文が何行も何行も。
行を送ってみる。
それでも次から次へと現れる “All work and no Play makes Jack a dull boy”
ウェンディ、胸を上下させて、打ち出された原稿用紙を重ねたホルダーへ視線を移す。
そこにあったのは、
“All work and no Play makes Jack a dull boy” で埋め尽くされ真っ黒になった原稿用紙。
不安な現代音楽が響き始める。
1枚づつ手に取ってみる。
現れるのは、ひたすら同じ文章がつづく原稿用紙。どれも、どれも、どれも。
しかも、さまざまにレイアウトを変え、執拗に同じ文章が繰り返される。
ウェンディ、息がさらに荒くなり、涙がこみ上げてくる。

All work and no Play makes Jack a dull boy

この映画で背筋が寒くなる描写はいくつもありますが、このシーンが一番かもしれない。
“All work and no Play makes Jack a dull boy” という文章だけが執拗に打ち込まれた原稿用紙。
「狂気」をまざまざと見せつけられます。タイプライターに差し挟まれた1枚分だけでも、この思念に取り憑かれていたことにぞっとするのが、重ねて置かれた紙をめくれどめくれど、この文章が出てくる。今で言うアスキーアートのように、この文字列で図形を描いているものもある。いらつきや怒りで同じ言葉を繰り返すのとはワケが違う、度の越え方。文字でレイアウトを作っていくための遊び心と注意深さが、ここでは強迫神経症の症状にしか見えない。
ヤバイ、こいつ壊れてる。掲示板の荒しだったら、どこのどいつか分からない分、そんなひと言で済む話だけど、もしそれが家族の誰かだったら?

ジャック・トランス名義で出版された本

この大量にタイプされた原稿用紙は、撮影用の小道具としてクルーのマーガレット・アダムスが作ったものです。ところが昨年になって、ニューヨーク在住のアーティスト:フィル・ビューラーが、タイプライター文字で「All work and no Play makes Jack a dull boy」を埋め尽くした本をジャック・トランス名義で出版しました。映画と切り離して見れば、タイポグラフィ・アートブックではあるけれど…。おいしいところを持っていってくれました。

柱の影からウェンディを覗き見する視線。
「傑作だろ」
思わず叫び声をあげ、バットを握りしめ振り返るウェンディ。
「どうだ?」
ジャックがゆっくりと近づいていく。なぜか血色がよく自信を感じさせる顔つきだ。

ジャック:何しに来た?
ウェンディ:(泣き顔で、ちらっと原稿用紙の方へ目をやって)わたしは、ただ、あなたと、お話を…。
ジャック:(不敵に笑顔を作り)いいとも、話そう。(重ねた原稿用紙をパラパラとめくり、最後に拳で押さえつけ)何の話だ。
ウェンディ:(視線が泳いで、言葉が出ない)…思い出せないわ。
ジャック:思い出せない?(高圧的にウェンディに近づいていく)
ウェンディ:(バットを握りしめ泣き顔で後ずさっていく)

インサートでダニーのアップ。目を見開いている。この情景が見えているようだ。
ジャックの声がダニーの耳に響く「ダニーのことか?そうだろう?ダニーのことでは相談が必要だ。」
ダニーがいつも見る血の濁流となるエレベーターホールのイメージ。レンズも赤く染まる。
ドアに書かれた「REDRUM」の文字。
ジャックの声がとても邪悪なもののように歪んで響く「ダニーをどうするか」

──ウェンディをじりじりと追いつめていくジャック。
ジャック:どうすべきだ?
ウェンディ:(もう何がなんだか分からないという顔)…分からないわ。
ジャック:(にやついてその言葉を聞いたあと、子供を叱る教師のような顔で)ウソだ。ダニーをどうすべきか、よく分かってる。言ってごらん。
ウェンディ:(後ずさりながら)多分…。お医者にかけるべきよ。
ジャック:(ウェンディの言い方を大げさにマネながら)多分、お医者にかけるべきか。
ウェンディ:YES!
ジャック:いつ医者にかけるべきだ?
ウェンディ:なるべく早く?
ジャック:(またウェンディの言い方を大げさにマネながら)なるべく早く?
ウェンディ:Jack,…please…
ジャック:ダニーは病気なのか?
ウェンディ:そうよ。
ジャック:ダニーが心配か?
ウェンディ:YES!
ジャック:(ちゃかすような顔が一変して)おれのことは?
ウェンディ:もちろんよ。
ジャック:(怒り口調で繰り返す)もちろんか。おれの責任を考えたことがあるか?
ウェンディ:何のこと?
ジャック:(怒鳴りつける)ちょっとでも、おれの責任を考えたことがあるか。雇い主に対する、おれの責任を考えたことがあるか。
ウェンディ:……。
ジャック:5月までここの管理を引き受けたことを忘れたか。どうでもいいのか!持ち主はおれを信頼して、ここの管理を任せた。おれも契約書に署名して引き受けた。契約や責任を何だと思ってるんだ?
ウェンディ:(圧倒されて後ずさっていくうち、階段まできてしまい、1段ずつ階段を上がっていく)
ジャック:信頼を裏切ったら、おれの将来は?どうなると思う?考えたことないか!
ウェンディ:(軽くバットを振って)来ないで。
ジャック:なぜ?
ウェンディ:部屋へ戻りたい。
ジャック:なぜ?
ウェンディ:頭が混乱して…考える時間が欲しいのよ。
ジャック:考える時間は今までいくらでもあった。今さら何を。
ウェンディ:あなた。来ないで(ジャックが近づかないようバットを振る)
ジャック:(怒りの形相のまま脅すように手をだしてみる)
ウェンディ:お願い。(バットを思い切り振り回して、襲いかかってきそうなジャックと距離をとろうとする)苦しめないで。
ジャック:(なだめるように右手をかざすが、近づいてくる)お前はおれの一生の光だ。苦しめるものか。話は最後まで聞け。苦しめたりしない。(両手を広げて)一気に殺してやる。(狂った笑顔で)頭をぶち割ってな!
ウェンディ:(必死にバットを振り回しながら、階段を後ろ向きで上がっていく)
ジャック:大丈夫だ。(両手を開きながら、諭すように)振り回すな。下へ置け。バットをよこせ。
(両手でカモンのジェスチャーをしながら舌をペロペロと出す)よこせ。
ウェンディ:(もう数段で2階まであがるところまで後ずさっている。必死にバットを振り回す)
ジャック:振り回すな。早く。ウェンディ。
──バットを掴もうと右手を差し出したところにちょうどバットがヒットし、ひるんだところで頭に一撃を受ける。
とっさに頭をかばった途端バランスを崩し、真後ろに倒れ込み、階段を転げ落ちるジャック。踊り場のところで動かなくなる。
ウェンディ、わけのわからない声を呼吸とともに発する。

ウェンディに詰め寄るジャック

20代の頃、「シャイニング」で印象的なシーンを挙げるとしたら、このシーンはTOP5には入らなかったと思います。40を過ぎた今、TOP3には入ります。
自分という存在を規定するとき、仕事が占める割合が圧倒的だから。同じ文章で埋め尽くされた原稿を見た後では、とてもジャックを正常な人間とは思えません。でもここでジャックが怒ってる論点は、受けた仕事を放棄するつもりか!ということです。「分かる」と思っちゃいます。「仕事と自分とどっちが大切か」と口にする人は、自分のことだけで相手のことを分かろうとしてるのかよ!という怒りですね。
仕事の責任についちゃ分かります。でもここでは論理のすり替えをしています。子どものことだって大切なんだろう。どんなことでもするって言ってたじゃないか。だったら、どういう手段を使っても、子どもと付き添いの母親を病院まで届け、その間1人でボイラーでホテル内を暖める仕事をこなせばいいじゃないですか。そうしないのは、ホテルに棲むあっちの世界の住人に操られているから。子どもは超能力を持っていて自分を邪魔しようとしている存在だと教えられたから。そんな子どもになってしまったのは、母親のしつけが悪かったせいだ。
今ジャックの仕事は、ボイラーでホテルを暖めることじゃない、小説を書き上げることでもない、自分がちゃんと家族をしつけられるかどうかという期待に応えること、にすり替わっています。使命が明確となって、妙な生気に溢れているのが怖い。書けない小説なんて、もうどうでもいい。自分はホテルのりっぱな管理人を勤め上げるのだ、彼らのためにも。

仕事の責任を楯にして、ウェンディに詰め寄っていく様は、同じ方向へ同じ速度で歩んでくれないパートナーへの怒りを爆発させて、小気味よかった。それだけでなくこのシーンは、ジャック・ニコルソンの迫力ある芝居に圧倒されます。睨みを利かせて怒鳴るだけじゃない、驚くべき多彩な表情の連続技。自分は絶対に正しいという、狂気じみた自信。階段を上っていくジャックの、背景がスコーンと抜けた広い空間のショットは、ステージ上のロックスターみたいなかっこよささえ覚えます。これは空間における人物配置・移動のうまさですね。
ウェンディが混乱と哀しみでひたすら後ずさるしかないのも、人物配置のうまさです。背中を向けて逃げ出さず、ずっと向かい合って、一定の距離を保ったままロビーの端から端まで、さらに階段の上まで移動させる。舞台劇のような1シーンですね。最後に階段落ち、というのも舞台劇の華です。

気を失ったジャックが床を引きずられていく。
左目の上、髪の生え際から血が流れ、時々痙攣したように薄目を開く。
ウェンディがジャックの足首を掴み、食料庫まで引きずっていく。
扉についた無骨な錠を開け、取手を引こうとするがビクともしない。必死に、力いっぱい何度引いても開かない。
ジャックが意識を取り戻して、頭をあげて足下を見ようとしている。
焦るウェンディ、はっと気づいて閂が刺さっていたのを抜くと、カンタンに取手で扉が開く。急いでジャックを食料庫の中に引きずり込んでいく。ジャックはもう意識が戻ってきている。扉を通過するとき、両手を枠にかけ、抵抗しようとするかと思わせるが、腕は力なくそのまま引きずられていく。

ジャック:何をする気だ。
ある程度奥まで運びこんだところで、ウェンディはジャックの足首を離し、足早に逃げる。
ジャック:(ウェンディの足を掴もうとするが失敗して)何をする気だ。
仰向けのジャックが体をねじって手を差しだそうとしたところで、重そうな音とともに扉が閉められる。
閉じこめられたジャック、扉に向かって立ち上がろうとしたが、右足に体重をかけたとたん痛みが走り、転がってしまう。
ウェンディ、食料庫の扉の取手に閂をしっかり差し込み、泣き顔でよろよろと扉から遠のいていく。

ジャック(声):ウエンディ、待て!
──ウェンディ、周囲を見渡し、柱に並んで刺さっていた包丁から一丁を右手に持つ。
ジャック(声):開けろ。
──ウェンディ、包丁片手に後ずさるが、力尽きたようにふらふら状態。
ジャック(声):早く出してくれ。開けろ。
──ウェンディ、泣き崩れるようにその場にへたりこむ。
──ジャック、扉の内側で顔を下に向けたまま、扉の向こうにいるであろうウェンディに向かって声をはりあげる。
ジャック:出してくれたら、すべてを水に流そう。みんな忘れよう。
──ウェンディは力なく座り込んで、ただ泣いている。
ジャック:(扉の外の様子を伺っているが反応がない)なあ、ウェンディー。
(泣き声で同情をひこうとする)すごく強く打った。目が回る。医者にかからないと。
──ウェンディ、まだ座り込んでいるが、涙を拭いて顔をあげ、ジャックの声を聞いている。
ジャック(声):置き去りにしないでくれ。
──ウェンディ、嗚咽は続いている。何か決心したようでその場に立ち上がる。(泣き声で)もう行くわ。何とかダニーを下の町へ連れて行くわ。雪上車に乗って。医者を連れてくるわ。
ジャック:(同じ体勢のまま)ウェンディ。
ウェンディ(声):待ってて。
ジャック:(悪意ある笑顔で)ウェンディ。
──よろよろと立ち去ろうとしていたウェンディが振り返る。
ジャック:開けてビックリ玉手箱だ!ハハハハハッ、どこへも行けるもんか。
ウェンディ:(不安そうに扉の方を向き、ジャックの声を聞く)
ジャック(声):雪上車や無線を調べてみろ。ハハハハハッ。行ってみろ!ハハハハハッ。
ウェンディ:急いで包丁を持ったまま立ち去る。
ジャック:(扉の内側を両手でバンバンと叩きながら)調べてみろ!
(舌をペロペロと出し、おちょくるようなしぐさで繰り返す)調べろ。

不安な現代音楽が鳴り始める。
ウェンディ、包丁を右手に持って、ホテルの玄関扉に駆けてくる。
玄関扉の外には雪が積もっていて、扉に思い切り体重をかけないと開いていかない。
外は霧がかかったようにぼんやりと白く、雪がちらついている。その中を弱々しく走っていくウェンディ。
ガレージの扉は開け放たれたままになっていて、ボンネットが開かれたままの雪上車が見える。ウェンディ、ゆっくりとボンネットの中を覗き込む。ワイヤーを切断されたディストリビューターが無造作に置いてある。吐く息が白い。息が荒い。どうしていいかわからない絶望感でその場から立ち去れない。

キューブリック映画の画面上の特徴として、〈中央奥に遠近法消失点がある廊下構図〉と〈人の顔〉と〈光〉が挙げられますが、とくに「シャイニング」では〈人の顔〉が強い印象を与えています。ジャック・ニコルソンの強烈な個性がある顔に宿る狂気の目、シェリー・デュヴァルの宇宙人のようなパーツをした泣き歪む顔、どちらもコワイ。
得たいの知れない怖さを生むのは、何を考えているのか読み取れない無表情ですが、ジャック・ニコルソンの場合は、大仰でハイテンションな、変幻自在に繰り出される表情がコワイ。感情と表情が同期しているのであれば、これほど小刻みに感情が変わる人格そのものが。

さて。ここで興味深いのは、ジャックには殺意があるのに、ウェンディには正当防衛だとしてもジャックを殺す意志がないことです。階段から落ちて動けなくなったジャックを閉じこめ、あとで医者を連れてくる、と言っているのです。殺す勇気がなかった?いや、家族だからでしょう。
冒頭の「インタビュー」パートで、彼女は恐怖映画好きだとジャックは言っていました。相手がただの化け物だったら、階段から落ちた体を引きずっていくにしても、一番近いロビーの暖炉に放り込んで焼き殺してしまえばいいし、閉じこめるにしたって食料保管庫でなく肉類を保管する冷凍庫に入れちゃえば生きてはいないでしょう。愛ですね、愛。

扉に向かって話すジャック

先ほど印象的なシーンTOP3の話をしました。食料庫に閉じこめられたジャックが、扉越しにウェンディに出してくれと懇願する、真下からあおった画面もTOP3に入ります。よくぞこのアングルを見つけたものだと恐れ入ります。人はうつむき加減で視線を上に向けたままにすると、敵意を持って威嚇している表情になりますが、それを真下から見上げると、舞台裏から役者を見るかのような、相手を欺こうとして表情を作ってるのが分かるのです。
変幻自在の表情で扉の向こうにいるウェンディの気を引こうとします。しかし左手はしっかりと扉を押しつけ、右手は扉の取手位置にあるストッパーを強く握りしめています。体は怒りを、顔は同情を引こうと欺く表情。相反する感情が同時に現れると、人は混乱します。笑ってるのに目は笑ってない、ってだけで困惑しますからね。人間の怖さを引き出したこの画面は、武器を持って襲ってくるところよりも、自分にとっては突き刺さりました。

次章は、いよいよ「斧」の登場です。

[1]〜[5]第一稿:2009.7.18

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《オリジナルはモノラル音声》
キューブリックは、作品ごとに、その時代で最先端といえる映画技術を取り入れて映画制作を行ってきた作家です。現在の作品は、5.1chサラウンドが主流ですが、「時計じかけのオレンジ」「バリー・リンドン」「シャイニング」「フルメタル・ジャケット」は、すべてモノラルでサウンドトラックが作られています。これらの作品はデジタルリマスター版制作時に5.1ch化されていますが、オリジナルはモノラルであることを頭に入れておくべきでしょう。
出典は忘れてしまいましたが、「フルメタル・ジャケット」公開当時、録音技術者さんの記事で、キューブリック作品のモノラル音声は、モノラルとは思えないほどクリアーで奥行き感があり、とてつもないクオリティの音質だったと。劇場での立体音響による音の広がりよりも、徹底して音質にこだわり、モノラル独特の音圧を重視したのかもしれません。


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