今さらですが、劇団四季「ライオンキング」を観てきました。
2年前の春、ニューヨークに行った時「ライオンキング」を上演中の劇場と隣接したディズニーショップで、衣装デザイン・スケッチと写真の展示を目にして以来、ずっと観てみたいと思ってたんだ。
ディズニーのアニメ映画版は観てないし、興味もないんだけど(笑)、造形的な衣装がとにかく印象的で。これ、どうやって動くんだろ?ってね。
チケットがなかなか取れないという思いこみがあって、日本で四季劇場の柿落とし公演をやっているのは知っていてもずるずると時が過ぎて…。ダンス仲間のまたみ。さんルートでいい席をゲットできるとあって、やっと!
はじめての四季劇場。まずはNOB.くんから聞いていた、2、3階端にある<視界が遮られる最悪の席>をこの目でチェック(笑)
僕らはほんとにいい席で観ることができて、またみ。さんに感謝!
舞台の「ライオンキング」は、評判通りに素晴らしいものでした。これを観ないのは、QOLの損失だ!って思えるくらい。
ストーリーは普遍的でシンプルなものだけど、それを見せるための演出とアートワークのアイデアが圧倒的!マスクを頭部に掲げた役者自身が動物キャラクターを演じる<ダブル・イベント方式>は、通常の歌や芝居はメイクをした役者が演じ、映画だと顔のアップが必要となる強調部分は、マスクで顔を覆うというテクニック。これを映画でやっちゃムリがあるけど、様式的な芝居の表現として効果的でした。マスクを頭部の上に固定しているアジャスターがどんな仕掛けになっているのか、大きな輪をくぐらせるような動きを加えて頭部を下げると、マスクが顔の前に降りてくるんだよね。これ、雄ライオンの王ムサファとスカーの造形で、あとはキャラごとにそれぞれ造形の工夫がしてあるんだ。
「ライオンキング」って、そもそもがディズニーのアニメだから、アニメキャラそのものっていうキャラも登場します。アフリカン・アートとアジアの芝居様式を取り入れた演劇空間に、ディズニーキャラを加えることって、エンタテイメント的要素とプロデュース的には必要だったとしても、舞台作品として必要だったかな、とは思ったけど。
モロにディズニー・キャラのティモンは、文楽人形を操るかのようなマペット操作と人間の芝居を同時に行なうもので、その表現の巧みさには驚きました。片腕で身体を支え、もう片腕で頭部を操作するハイエナさんにも驚いたよ。キリンさんは、手足にすげー長い竹馬をつけて4足歩行してるし。みんな、カラダは大丈夫?あっちこっち、おかしくなってない?って心配になったりして。
ムサファの死を悲しむメス・ライオンたちが、涙を流すシーン。これ、マスクの目の部分から細いロールペーパーを放って、まさに<涙ちょちょぎれる>様子を様式的に表現しているのね。でも、すぐ後ろに座っていた女の子が爆笑しちゃって、その後笑っていない連れに向かって「なんで笑わないの?」って抗議してたっけ。
たしかに直球すぎて<おもしろい>表現だと思うけど、展開的に死を悲しむシーンなんだから、爆笑するのもねぇ。
爆笑するなら、再会したシンバとナラに愛が芽生えるシーンで、バックで男女のダンサーがバレエ的にからみあいながら一生懸命<愛>を表現しているとこが、直球通り越してギャグとしか思えない展開だったんだけど。
オープニングの第一声から引き込まれる、占い師ラフィキの歌。英語でもなく日本語でもない言語(ズールー語)とアフリカン・リズム。観客席後方から次々と登場する動物たちが舞台を埋め尽くすスケールの大きさとともに、劇場を広大なサバンナへと一気に塗り替える見事な演出。そして歌声の迫力。
厳しい言い方をしてしまえばフォーマット通りの芝居が目に付く中、純粋に生身のエネルギーを感じたのは、このラフィキの歌声でした。
やっぱりダンスには、目が行ってしまいましたね。ダンス・パートは、圧倒的なパワーを放つアート・ワークに比べて、ミュージカルという枠に収まったアンサンブル・ダンスという印象でしたが、ダンスそのものがメインでなくシーンの一部分であることを考えると納得でした。
ダンスも含めて、劇場を支配する空間と時間のコントロールが厳密に計算されているのはすごかったな。視線の誘導とタイミングの正確さ。僕は映画演出に興味があるから、余計にスゲーって思ったんだけどね。
演出家ジュリー・テイモアが、「ライオンキング」の次に創作したのが映画「タイタス」であることを考えると、1秒以下のタイミングへのこだわり方もなるほどーって思いました。
「タイタス」を見逃さないようにしないと!
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