地球に落ちて来た男  TOP
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宇宙からやってきたスーパースター「ジギー・スターダスト」を演じてみせたデビッド・ボウイーが、ドラマという辻褄の中で自らの虚像をフォローした映画である。どハデなメイクをしなくても、十分普通の人間には見えないボウイーの容姿が、ストーリーに独特の説得力と哀愁が生まれた。

この映画の監督であるニコラス・ローグは、ヌーベルバーグの旗手フランソワ・トリフォー監督のSF映画『華氏451』の撮影を担当した人だ。セットや特殊効果を用いずに、人間主体の映画に徹するスタイルは、そのまま『地球に落ちて来た男』でも貫かれている。
制作当時の映像テクニックとして流行っていた、手持ちカメラによる撮影やズーム・レンズの多用は、今では安っぽいものにしか見えない。ニコラス・ローグ監督のお家芸ともいえる、時間軸を超えたカットバックも、この段階では映像的なカタルシスにまで至っていない。素人くさいのだ。
このチープでラフな作りが、意外な効果を生んでいるのがこの映画の幸運なところである。ボウイー扮するニュートンの孤立感をじっと見つめる、ホームムービーのように見えてくるのだ。寒々しい色調や荒廃した土地によって、現実的な孤立感をさらに浮かび上がらせ、主体となるボウイーの存在が際立った作品になっているのだ。
数あるボウイー出演作のすべてを僕は観ていないが、この映画ほどボウイーの存在感を感じさせる作品はないように思う。

映画の中でボウイー扮するニュートンは、積み上げたたくさんのTVを同時につけて、イメージの洪水を浴びている。母星でもテレビによって地球のことを知ったのだという告白も用意されている。
異星人が地球上の情報収集のためにテレビを観ているだけなのか。たぶん、それ以上の意味があると思う。テレビの中の現実は、それがどんなにリアリティーをもってしても、安全なところでくつろいで観ている者にとっては、たんなる箱の中の現実でしかないのだ。
同じようなことは映画の中でも、ブライス教授の誕生日に贈られた画集にあった<ブリューゲルの『イカロスの失墜』では、あらゆる者が他人の災難に無関心である>という解説を、読ませるだけの長さで映していたことからも伝わってくる。

ボウイー扮するニュートンは、家族をひからびた星に残し、水を求めてやってきた異星人である。彼は帰るために必要な金を得るために企業を起こした。だが、人々の関心は大企業のオーナーと異星人という2点のみで、彼の哀しみについては無関心だ。
これはそのまま、ジギーという虚像へ熱狂する群衆とボウイー自身の自我の問題にもシフトすることができるだろう。
<自我とセックスして、ジギーは自分の魂のなかへと吸い込まれた>と歌ったボウイー。
吸い込まれた先の魂は、異星人の魂か人間の魂か。
映画では、軟禁されて人体実験を繰り返されていくうちに酒浸りとなり、最後にはカモフラージュのためにはめていた人間の目のコンタクトを密着固定させられてしまう。虚像への同一化を強行されたのである。皮肉な展開である。

そして現実でも映画でも、非常にパーソナルな音楽を作ることで決着をつけていることは興味深い。ボウイーのアルバムとしてはベルリンの憂鬱をそのまま音に置き換えたような『LOW』にあたる。

皮肉といえば、バイセクシャル宣言を行なった最初のスーパースターでもあるデビッド・ボウイーのレイヤー構造を保つために、この映画ではゲイという要素をいくつか取り込んでいる。
ワールド・エンタープライズ社長に抜擢された弁護士ファンスワースには恋人の男がいるし、中性的なニュートンが語る肉体に対する欲望は、女にも、男にもというセリフがある。
男臭さがキーワードとなるゲイの世界では、いわゆるビジュアル系を忌み嫌う傾向があるが、この映画のボウイーは全編どこを抜き取ってみてもビジュアル的に美しく、カッコいい。その美しさは、萩尾望都の『ポーの一族』につながるような世界を孕んでいる。少女漫画が求めていた肉感を伴わない男を、見事にボウイーが体現しているのだ。
そんなボウイーのヌードやセックス描写は、まさに自分とは関わり合いのない世界で行なわれる箱の中の現実だといっていい。
壊れそうな状態のボウイーが揺れ動く様を、人形遊びをするように楽しむ観客。
他人は無関心でいるばかりか、サディスティックなのだ。
虚像は虚像。誰も彼に人間らしさなんて求めていない。いつも数歩先を歩いて詔を返してほしいだけ。
「荒ぶる神」はこの映画以降、自分の側に虚像を統合化させ、やがて雄の領域を拡大して人間臭くなっていった。
それはまるで「地球に落ちて来た男」のマルチ・エンディングを観ているかのようだった。



この映画には長さの違うバージョンがいくつか存在する。
1977年日本で公開されたものは119分だったが、1990-08-27にNHK BS2でオンエアされたものが134分。長らく日本未発売だったビデオは139分。
今年国際映画祭の英国映画祭部門で公開された<完全版>は、138分だったようだ。



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